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又来ました

2007.01.17.22:36

又 一月十七日が やって来ました

あの日のこの時間帯は 布団の下にダンボールを引いて
 余震におびえながら 小学校の放送室で寝ていましたねぇ
何の被害も無かった(家族が全員 かすり傷も負ってなかったので)
 私でさえ 少しの振動にビビリまくり 水仙の花に悲しみを覚え
  震災時は 花の無い時期だったので よく水仙の花が供えられていたんです

小さな木切れに 傍にあった石ででも書いたような
 「ここに○○が まだ埋まっています」とか
 「ここで××が 亡くなりました」
    その横に 水仙の花が・・・・・・・・

そのとき住んでいたマンションの傍の家も全壊
 今では その家があった場所も定かでは無くなりました
歩いていると その家があったのが 嘘のような気がします

鉄筋コンクリートのマンション住まいでしたから
 家具は倒れ 食器は壊れ でしたが家そのものは 大丈夫だったんです
    少なくとも室内はね
だから まさか古い日本家屋が ペシャンコになってるなんて
 その時は考えもしませんでしたから

家がね 真ん中から 半分に裂けてるんです
 それを見ても 私の頭は 理解不能!
「この家・・・・・????????」
誰かが 屋根に手を掛け 左右に引っ張ったみたい
  “V”の字型に 裂けてるんですから
普通 そんな状態にはならないでしょう
 
常識を飛び越えてしまった状態に会うと 脳みそ君思考停止状態に
  なってしまうんですね

少し高いところから 眺めた町並み
皆さんは どうご覧になります??
 甍の波が 美しい? 自然が多くて・・・・・・

最初にこれを見たとき 私が言った一言
  「地震で 全滅する(きっぱり)」
瓦屋根の家は 下に土を引いていて重いんですよ
 しかも古い家 となったら 大きな地震が来ると壊れるっきゃ無いっしょ!

住んでいるのは お年寄り
 家と家の間は 人一人が通れる程度の狭さ
    何かあったら これは大変ですよぉぉぉぉ
でもね
昭和21年の南海地震のとき ほとんど被害が無かったとかで
  災害に対する備えが かなり不足しています
最近は「防災」より「減災」が叫ばれているんですけどねぇ
 それに 「ここは薬王寺さんが守ってくれてる」そうですよ

     良いのかねぇ
甍の波ですが・・・・



私の震災体験 ここに少し書いてます
 読んでも何の役にも立たないでしょうが
  震災の話 
   震災の話続き
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避難所を出る

2005.10.20.21:32

osasan



久々の 震災話です

震災後すぐ家探しをしたので 家はすぐ見つかりました
   尼崎市内です

本格的に引っ越すには 道が混んでいて 車が通れないので
少しずつ運んでいきました

私もリュックに荷物を詰め 近くの駅は 電車が通ってないので
 神戸市の隣 芦屋市まで 1時間ほど歩きました

沢山の人たちが 列を成し 歩いていきます
普段なら 人数が多いと そこかしこで話し声なんかが聞こえるものですが
このときは 黙々と 歩き続けました

歩いている最中 場所によっては いろんな音がします

ガラスが割れたような音 何かを踏み潰した音 なんだかわからない音
 家が倒れて道路にはみ出している所は 車道を歩きます
車も 人も 同じ所を・・・・・

黙々と 唯ひたすら 前に進んでいきます

何のときだったかなぁ
      夜 バスに乗りました
そう 雨降りの夜でした

人いきれと雨で 湿度の高くなった車内
  声を立てる人はいません
しーんとした車内で 思い出したように ポツリと話し声が・・
    それもすぐに絶えてしまいます

長男が 友達の家のトラックを借りてきてくれました
 そのお友達も 引越しのお手伝いをしてくれました
       長男とお友達二人

このときばかりは 子供が男の子でよかったとしみじみ思いました
 しかも 良いお友達に恵まれている事も

荷物は 8階から1階まで 運ぶんです
 大きな冷蔵庫もタンスも何もかも運んでくれました

しかも 夜遅く
  昼間は道が混んでいるので 夜中に走るんです

そのとき警官が
  空き巣狙いと間違われかけたようでした

そのときは そうでもなかったんですが
  後になって はらの立つこと
しかも 呼んだのが すぐ横にある壊れなかったマンションの住人

立場を変えると当たり前かもしれませんが
  引っ越したくないのに引っ越さなければならない身には

荷物を全て積んだ後 息子たちは 山越えルートで走っていくんです
    神戸はすぐ後ろが山ですから

もちろんかなりの遠回りです

引越し先には 前日のうちにご近所周りをして
  事情を話し 夜中騒がせる事を 挨拶して回りました

震災後1月ほどしてから 出勤するようになったんですが

 頭が変になるというか 精神的におかしくなると言うか
      どう言えば良いんでしょうか

今まで住んでいた所は 家はつぶれ マンションも壊れ
       それが当たり前の世界 
ところが 
   電車に10分も乗ると 普通の世界
駅前のパチンコやで 昼間から パチンコしている人が・・・・
      10分乗ると 壊滅状態の町

普通の世界と 壊滅状態の町を 往復していると
  どちらが本当の世界で どちらかが虚構の世界のような

引っ越してから どれくらい経った時でしょう
 そう 2週間くらい後だと思いますが
住み慣れた街中を 歩いていると 
いろいろの事が 走馬灯のように頭の中をよぎります

あれも出来なかった
  こうしてあげればよかった
    あの時には・・・・・・・

自分の無力さ 私と言う存在の小ささ

歩きながら ふと気づくと 涙が
 人気のない町の中を 一人でなきながら歩きました

    私の中で 何かが 燃え尽きました


避難所にて その七

2005.10.04.22:52

夕日


3週間ほど 避難所にいましたが
  避難所を出て行く1週間か 10日ほど前に 
中学生の男の子が私の交代要員として 放送室に来るようになりました

「まず ゆっくり話す事!」
「これくらい?」
「まだ はやーい!」

避難所には お年寄りが 沢山いらっしゃいます
 話方が 早いと 聞き取れないんですよね

よくからかって遊んでいましたが しっかりした良い子でした

ある日 学校の先生が メモを持ってきて 
   これをそのまま放送してくれとのこと

病人さんを運ぶ為の 車の提供です
「このまま 読み上げても・・・
   でも 読んでくださいってことだから」
彼に放送させました(上手いんですよ)

しばらくして すぐそばが 保健室なので 
 部屋から首を突き出していると 保健室に出入りしている人が
「どなたか 車の提供ありました?」
「いえ まだどなたも」

「まだ誰も来てないみたい  では 大先生様が やってみるか!」
 (冗談で 私 自分のことを「大先生」って言ってたんです)

放送内容は メモとほどんど変わらないンですけどネ

それから 30分後 
「誰か 来ました?」
「おかげさまで・・・」

「ふん さすが大先生様だろ!!!」

二人で そんな事で 遊んでいました

私が避難所を出て 数日後 ばったり彼と会いました
 なんか元気がありません

「僕 引っ越す事になりました
  徳島市から まだバスで ずーっと山に入ったとこ・・・」

それが最後で 二度と会う事がありませんでした

“ケンタロー”と言う名前だけしかわかりません

震災から もう10年 
 彼も大学を出て 社会人になっている年です

どうしてるんかな?

おーい 元気にしてるかぁ 
  けんたろーーーーーー!

避難所にて その六

2005.09.22.12:11

カヤツリソウの一種です
カヤツリソウって 薬草だってご存知ですか?
 漢方薬でむくみの強い脚気 腎臓病、ネフローゼ 喘息 胃痙攣に効くんですって
  知らなかったぁ  雑草って馬鹿にしちゃいけないんですね
かやつりそう




震災の翌日 こんな事を言った人がいました
「早く引っ越し先を探さないと 無くなるよ」
  さて誰でしょう??

翌日から 主人は知り合いの伝を頼り 家探しに行きました

放送係を機嫌よく やっていましたが 一週間位してかな?
教頭のおばちゃんが やってきました

要するに 私が勝手に 放送しているのが 気に入らないという事です

尋ね人はもちろん 水が来た 医者が来たと 何事につけても
私が連絡し 職員室を無視しているのが お気に召さなかったんでしょうね
でも私は リーダーに頼まれたことでもあり
 根っからの 生まれつきの 世話焼き精神から やってるんですけどね

「じゃかっしい!!!!」
プツンと切れました
  ブチッ!っとじゃないですよ
「ブチッ!」だったら 鉄パイプ片手に 職員室に殴り込みをかけてますから
「夜中に被災者を 追い出そうとしたり てめぇら それでも人間かぁ!」

   以下略(私の人格を疑われるような 言語の連続攻撃ですから)

教頭は 口の中で 言分けしながら 帰って行きました
 私の怒鳴り声で 廊下を通っている人が 不思議そうにこちらを見ながら 通り過ぎていきます
苦情を言いに来た教頭は 私に一方的に 怒鳴られて退散しました

   「うーーーーん ストレス解消!!!」

皆さん 大きな声を出すのは ストレス解消に良いですよぉv(*^^)v

翌朝 又教頭が
「私が悪う御座いました」って?
「うるさい!出て行け!!!!」 !(^^)!

又腹を立てた 私は 部屋の戸を締め切り 仕事はせずに知らん顔
いつもは 目が覚めると 入り口の戸を開け放しているんです
  どなたでも入って気安いように

でもリーダーの人が 困るというので 再開しました
 リーダーは一生懸命してくださってるのに 困らせるのは本意ではありませんものね

でも それ以降 教頭は 部屋の前を通るとき 何故か 廊下の向こうの端を通るようになりました
それを見ながら 下の息子に
「私 廊下の真ん中に座ってようかな?」
「お母さん それはいじめやで(笑)」

もういっちょ 教師ネタ

夜 10時過ぎてたかなぁ?
どこかの奥さんが 子供が風邪を引いて 熱があるとこられました
   (はぇ わたしゃ 医療係かぇ?)
後ろに ご主人らしい男の人も一緒に
「解熱剤をさしあげますから これを飲ませて 様子を見てください
  もし何かあれば 何時でも良いですから もう一度来てください
  ご相談に乗りますから・・・・」

薬を持って帰っていく 女の人の後姿を 見送るとも無く見送っていると
職員室の前で 男の人は 職員室に入っていくではありませんか!
 女の人は一人で・・・・・・・

ここの学校の教師は
   アホとバカの集団かぁーーーーーーー!

ついでにもういっちょ
自衛隊の医療班が 駐在するしないの話の時 教頭が
「夜中の急病人が出ましたが 救急車を呼んで・・・・・」
(えっ! 救急車??)
私は 寝ると起きない事にしている人なので 目ざとい主人に後で確かめました
「夜中に救急車なんて来たことある?」
「絶対 一度も無い!」

   教師なんて うそつきだぁーーーーーー! 

もともと 教師に対して 不信感を持っていた私は ますます教師嫌いに

言っておきますが すばらしい教師の方にもお会いしてますし
  教師全部が 悪いなんて寸毫思っちゃいませんよ

しかし 出来の悪い教師は 人間としても最低の人間だ!
   この意見は 変えんぞよ  なんか文句あっか!

学校の先生をしている人が読むと 不愉快だったかな 今日の分は・・・


 本宅へもどうぞ
    http://blogs.dion.ne.jp/titan53/

避難所にて その五

2005.09.21.22:42

線路脇にススキの穂 
    刈り取りの終わった田んぼ  
          秋です
秋の風情



長男から 後で聞いた話

「みんなあわてて逃げたやろ 玄関開けっ放しのままやから
 自転車用のチェーンの鍵 買うて つけて歩いてきた」
お友達のおうちに 鍵をつけて歩いたらしいです

「壊れた家に 人がたかってるから 寄っていったら
  埋もれたままの人がいる 言うんで 手伝うた
 あちらこちらで 何人か 引っ張り出したけど 3人ほど死んだ」
「ちょっと 死んだ は無いでしょ」おかんとしては 言葉遣いチェック!
「掘り出すまでは “うーん”て声聞こえててんけどなぁ
  引っ張り出したら 死んでた」

同じ状況にあっても 下の子は
「埋もれた人を 掘り出してたけど 大人の人が ぎょうさんおったし
  邪魔になるだけやから 其処から離れた」
状況判断が しっかりしていると言うか なんというか・・

下の子も 手伝う必要があると判断すれば やるんですが
 兄弟でも 反応が違うもんです

   まあ 長男は誰に似たのか ちょっと(かなり?)世話焼き?!


避難所の中も リーダーが出来 少しづつ 落ち着いてきました
頼っていく所のある人は 出て行き 余裕が出来てきました

自衛隊が 水をタンクで 運んできてくれるようになりましたし
  食料品も コンスタントに 届くようになりました

放送室も 尋ね人の放送も減っていき のんびりとしてきました

そうそう 自衛隊の車が入らないと言うんで 校庭に止めてあった車を
動かす事になりました
リーダーに頼まれ お手伝いのボランティアを 集めることに

 マイクに向かい 丁寧に心をこめて
「オネガイ テツダッテ!」と言う 感情こめた放送のお陰で???
何人か 集合してくださいました
  いざとなれば 知らないもの同士 助け合うんですよね

車ですか? 持ち主が 見つからないのか みんなで力を合わせ
  持ち上げて 移動です  重いやろナァ

自衛隊の水のタンク 幌をかけた大きなトラックが ひいてくるんです
それの横で 下の子と
「ねぇ このトラックの中 幌を開けると 何が入ってるんだろ?」
「鉄砲とか バズーカ砲とか・・・」
「そんなもんなら良いけど 自衛隊員が 座ってたら怖いでぇ
  幌開けたら 一斉に こっちをにらんだりして・・」
「ん! それ 怖いなぁ」


トイレでたまたま お年寄りと一緒の女の方を見かけました
おばあちゃま 足が不自由らしく 歩きにくそう
私「おんぶしましょうか?」

胸を打ったらしく 痛いとのことで おんぶできないので
 付き添いの女の方と おばあちゃまを支えて すぐそばの教室へ

そんなご縁で お話しするようになったのですが
その女の方は 70歳(過ぎてたかも)寝たきりのご主人は88歳
 おばあちゃまは 母親とのことで 99歳
今年 白寿のお祝いをする事になっていたそうです

おばあちゃまもそのときは お元気で お祝いの時 踊りを披露するんだなんて お話をしていたんですが
一週間ほどすると はっきり言えば ボケたんでしょうね
 目がうつろで 焦点が合わず 話かけても 返事が無い

でも 女の人は いつでも明るく お元気なんです

その後 寝たきりのお年寄り等を 何人か施設に引き取ってくれるとの話が
ちょうど 相談している時に行き合わせ 大声で その方たちの名前を
 横で連呼し続けました

そのせいではないでしょうが 2~3日後 女の方にお会いすると
おばあちゃまも寝たきりのご主人も 引き取ってもらえたと・・・
さすがに ほっとしたような 肩の荷をおろしたと言うような
 明るい表情で 教えてくださいました

正直 あのお二人を抱えていては 何一つ出来なかったでしょうからね



 本宅です
     http://blogs.dion.ne.jp/titan53/
   

避難所にて その四

2005.09.20.11:05

みのむしさんに 久しぶりにお会いしたので
   記念写真
みのむし




学校にいる間 いろんなことをさせていただきました

学校のすぐそばに 市営住宅がありました
市営住宅といっても 十二階建てだったかなぁ 
 ともかく大きな建物が 2棟 L字型に建っていました
Lと言っても 隣の棟とは 短い渡り廊下で結ばれていたんですが
東西に建っていた建物が 南北に立っていた棟に 倒れ掛かっているんです

最近では どこでもそうかも知れませんが お年寄りの方が沢山住んでいました
市営住宅を出されると 行く所がないというんで 
えーーーと どう書いたっけ
 「市営住宅連絡協議会」と言うような 看板を書いてくれと
板切れを 持って来られました
「はぁ 私が書くんですかぁ」と叫びつつ 書きましたけれどね
      それも 私の仕事?

放送が出来るようになると 尋ね人の呼び出しが ぞくぞくと
一度に 大勢の方の名前を聞いても 無理なので 
 5人ずつ まとめて呼び出しました
「○○町の△△さん *****さんがお見えです」を5人分
「○○町の△△さん ××通りの###さん・・・・・いらっしゃいましたら 放送室前までお越しください」

周りが ざわついてうるさいので 大声で
「お呼びした方は 廊下の向こう側で お待ちください はい 次の方」
「~~の@@@さんで判りますか?・・・・・・」
五人たまると「少々お待ちください」ここまで 大声

マイクの前に立つと 人の変わったような 静かな声で「なんとか町の・・」

又大声で 

それの繰り返し
その合間に 後ろから「医者はどこに・・・?」と言う 居住者?からの問い合わせ
「お医者さんは その廊下を・・・・」と大声

「すいません ここ以外に 避難所は?」
「はい この南側の スポーツセンターと あと周りの駐車場の車にいらっしゃる方も 学校でしたら この下の道を 西にしばらく行くと
 もう一つ小学校が・・」と大声

「ここにいる人の名前は そちらのロビーに・・・」と大声

その繰り返しで 夜になると 私の美声が しゃがれて出ないヨーー!

早い時は 朝6時ごろから がらがらと戸が開いて「呼び出してもらえますか?」
夜は 十時頃まで「呼んで欲しいんですが・・・」
 さすがに 夜遅くは「申し訳ありませんが・・・」と断りましたけどね

1週間もたつと 少し落ち着いてきて 尋ね人を待っている方とお話しすることも
高校の先生と
「生徒なんですが 子供が生まれて 前の日に家に帰ってきたんですよ
 奥さんのお母さんが 手伝いに来ていて・・・
 奥さんと子供とお義母さんの3人が亡くなったんです」

いろんな方とお話しましたが この話だけは 忘れられません





避難所にて その三

2005.09.19.20:40

木岐の城山に 栗がなっていましたが 
    カメムシさんの食料になっていました
栗



2日めに 大きな余震が・・・・
  学校中に 悲鳴が上がりました
私は 天井の蛍光灯が 落ちてこないか 見上げていました
 でも 蛍光灯は 天井にしっかり張り付いているタイプで
   落ちてくる事は ありませんでした

皆さんは 歩道橋が 揺れるのごぞんじですか?
 特に 下を大きな車が通ったりすると 揺れるんです
震災後 気づきました
    もちろんそれまででも 揺れていたんでしょうが
震災後は 揺れに非常に敏感になりました

3日目「キンデン」(電気工事の会社)の人が来て
  電気がつくようになりました

明るいと言う事が こんなにも 気持ちを落ち着かせるものかと 驚きました
電気で明るい生活 ありがたいものです

さて 避けて通れないのが 下ネタです
 そう トイレです

私の入っているのは 放送室
隣が校長室と職員室  反対側が保健室  向かいは給食室
給食室の隣に一部屋あり 次がトイレ
初日は そのトイレ 全員が使ってました  もちろん

しかし 学校側が教職員用トイレのみ使用停止にしたんです
 教職員用は使うなと言う事のようですね
このあたりの 詳しい事情は 知りませんが・・・・
トイレの外に 使用禁止の張り紙が
 その前に被災者の人たちが 掃除してましたねぇ

水の流れない水洗トイレ(ご想像に任せます)

個人宅でも 事情は一緒です

あるおうちで 傍を流れる川の水をトイレに利用していたんですって
川の水を 水のタンクに入れて 使用していると
しばらくして 水が出なくなりました
 ここで問題
どうして水が 出てこなくなったんでしょう

答え
タンクの中に 水草が はえたから
水の中に 水草の種でも混じっていたんだろうと言う事です

学校のトイレに戻ります
幸い プールに水があったので それを使って それまで使いっぱなしのトイレの掃除をしました
水はバケツリレーで運ぶんですよ

トイレの水は バケツに水を入れておき 大のときのみ使用

トイレを出てから 手を洗うと言う作業が こんなに大変なものとは
バケツを眺めて 一番きれいそうな水で 洗ったんですけれどねぇ
 まず 「きれい」の基準を どこにおくかですよ

トイレに行く途中に 御遺体安置室が ありました
  それがどうした  ですね
たとえ 夜に行く時でも
 カーテンの隙間から 部屋の中を 覗いた奴もいるんですから
えっ!誰かって?  わかってるくせに


学校の教師の中にも 良い人はいました
若い先生で 放送担当だった人です
電気が通じれば 放送設備が 使えます
使い方を こっそり?教えてくれました
その人は 教師になる前に 企業で働いていたと 聞いた様な気が

夜 我が家(放送室)に来て 話をした事がありますが
 自宅がつぶれ 親を車に乗せて 大阪だったかな
知り合いの家に 預けにいったそうです
そのとき 学校の傍を通りかかり 学校に行かねばならない時なのに
 そう悩んだと  そんな先生もいるんですよね 

放送設備が使えれば 元放送委員(小中学生のとき)としては 張り切らなくては
   「おまかせ!」

放送室にいるせいか 問い合わせが多いんです
「ここ以外に 避難所はどこに?」
「遺体はどこに 運ばれたんでしょう」
3日もすると 安否を尋ねてくる人が だんだん増えて来るんです

さて 私がした仕事は
1、放送での連絡(水 食糧配給)
2、尋ね人の呼び出し
3、各種問い合わせ
4、夜中の病人の相手
5、教頭のおばはんと喧嘩
6、世話焼き
7、おしゃべり(情報収集????)
    位だったでしょうか

ギャーーーーーーー!又仰山書いてもた
    続く



  本宅の方にもお越しください
    http://blogs.dion.ne.jp/titan53/

避難所にて その二

2005.09.18.17:36

アイディアですね
  石垣に棒を差し込み その上に 箱を置いてるんです
negi



翌朝 起きてもすることは なーーもなし!
 ふとんを リュックに詰め ダンボールを横の隙間に片付け
箒でちょこちょこっとはいておしまい

学校の横にある 社宅の水槽にある水を 配ると言うので 並んでもらいにいったり・・・・

そうそう 前の晩 10時頃だったと記憶していますが
外で 女の人の声が
なんでも 食料等の援助物資が 来たので どこかの部屋を 空ける様にいっています
もちろん 部屋の人は出て行こうとしません
その部屋から出て行けば 後行く所がないんですから

あとで判った事ですが その立ち退きを命じていたのは
 この小学校の 教頭でした
このおばちゃんは 又あとで出てきます

でも そのときの話書きたくないなぁ
 だって 私の本性丸出しだから
折角 今まで良い人ぶりっ子してたのにぃ・・・・

翌日 確かに たくさんの物資が届いていました
それを 配っていたので 私も手伝いましたが
そのときは まだ 中心になって指揮をする人がいなかったので
並ぶ人は 延々と続いているし・・・・・・
混乱のきわみでした

そんな時 一人のお年を召した女の人が
「こんなに 並んでいるんですね  私足が悪いから 無理ですわ」と 帰ろうとされるので その方を追いかけ 品物をお渡ししました
横にいた 若いニーチャンに変な顔されましたけど ね
「ふん! なんか文句あっか!!」の人ですから 私

皆さん おとなしく 受け取られるんですが 中には
「お前ら 偉そうにしたくて やってんのやろ!」と わめくおっさんが
「あほか 一銭になるわけやなし 第一みんな渡すのに忙しくて 自分たちは 何も口にしてないんだぞ」と 心で叫んでいました
 そのおっちゃん 向こうの方にいたから
私に言ったんなら 言い返していたかも・・・・・・・

手渡した物資は バナナ 牛乳 あと何があったかな?
そうそう 魚肉ソーセージ3本組 缶ジュース等でしたね

翌日くらいから リーダー役の人が 出てきてくれましたが

上の息子は 友達の安否確認等で 走り回り おしまいには どこか友達の家に泊めてもらい 夕方一度 顔を出すだけになりました
そのとき 頼んでおけば 何でも買った来てくれるので 我が家は 不自由な事は ありませんでした

震災の翌日から ビール飲んでました うちの旦那!

スポーツ系だった息子の友達は やはり ズータイのデカイ連中が多く 彼らが 隊列を組んで買い物をすると 周りの人は 引いたそうです
  あったりめーだろが!  
             でも 感謝!

その日か翌日だったかもしれませんが 主人の知り合いが 学校に避難している人たちに 名前等を書いてもらったものを 持って来ました
それを 主人と3人で 大きな紙に書き写し 学校のロビーに貼り出しました
このあたり 記憶が混乱しています
その名簿を 私 職員室に取りにいったような・・・・

名簿が 職員室の部屋の隅に 小さな箱に入れられ 放り出されているのを 覚えています
数が足りないので 職員室に聴きに行くと
「預かったのは 全て其処に入れてある」とそっけない返事をされましたねぇ

2日目の事かなぁ?
たまたま 校庭に出て行く 入り口に立ってると おじいさんが
「年寄りにも 仕事をさせないと ここにおりにくいやろ」と
つぶやいています
「おりにくいやろ? なんつーことをぬかすんじゃ このくそじじい!」
と わたくし上品に 思考をめぐらした事がありましたが
 そのじいさま 校長だったんです

そうと知っていたら 2~3発 殴っといたんですが 残念!

こういう 異常事態のとき 本当にその人の 人柄が出てくるものです

私の場合 いつもより ちょっと上品になっておりますが

こう言う校長に率いられた 学校は教師もひどいものだし 対応もひどいものです
これは おいおい出てくると思います

覚えているようでも 時間の経過が はっきりしません
話が前後して 読みにくくなるかもしれませんが ご容赦!


本宅にもお越しください
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避難所にて その一

2005.09.16.11:56

野菊ですが 正確な名前は わかりません
野菊



ようやく 8階にたどり着き 残っていた食パン 梅干 味付け海苔
ろうそく等 思いつくままに リュックにつめ また下まで降りました
部屋の外の廊下 隙間を詰めていた コーキング剤がはずれ
 下までストーンと丸見え
そこはほんの数センチなんですが 崩れそうで ちょっとスリル!

学校に帰ると 食糧配給の連絡
とりあえず 校庭に並んでいると 渡されたのは 小さなおにぎりが3個入ったパック
しかも それを2軒で分けるように・・・・・
2個をパックに入れたまま 隣の若い女性に渡し
1個を つまんで 部屋に帰り 息子に
「口開けて」
「なんやこれ?」
「食糧配給 終了!」

しかし 落ち着いているつもり 普段どおりだと 自分では思っていましたが
やはり 精神はHIになってたんですね
 空腹を感じないんです 何日間かろくに 食べなくても

誰ですか!普段のたくわえが すごいからって言うのは

   んーーーまぁ それもあるかも・・・・

する事も無く 時間だけが過ぎ ラジオは聞いていましたが
流れるニュースに代わり映えは無し・・・

息子をお供に 散歩開始

古いアパートの一階が潰れ 二階が道路にはみ出し通れないところがありました
国道(2号線)では 長距離トラックが 何台も渋滞中
 まさか 43号線が崩れて走れなくなってるなんて その時はわかりませんでしてから

国道沿いの 入院施設のある病院が 崩れ 道路にはみだした瓦礫を
サーチライトで照らしながら 排除作業中

酒屋の前に ダンボールが落ちているのを お土産に学校へ

どうして ダンボールがお土産か わかりますか??

ダンボールとか紙はすぐれた 断熱材なんですよ
避難した放送室は 薄いけれど絨毯がひいてありました
 放送中音がしないようにでしょうね
でも その下は コンクリート 冷えが染みとおってきます

でも ダンボールをひくと 暖かーーーい!

お兄ちゃんが
「避難所に行くなら メモ残しといてくれ!どこいったか探した」と
  文句ブーブーで現れ 無事家族集合!

   これで 我が家の震災は終了!

どんな所でも 家族が無事で 暖かく寝られたら それで十分です

教訓
ダンボールは優れた断熱材
普段から 酒屋 スーパー等ダンボールがあるところをチェック!

ろうそくは 一番太いものを用意する事
 懐中電灯と違って ろうそくの明かりは 暖かい炎です

  って どこが教訓ですかぁ????

          以下次号に続く
    

ようやく 避難所へ

2005.09.15.23:05

白い蓼(たで)の花です
 赤い花は よく見かけますよね
蓼



震災話続き

家にいても ガス 水道 電気等全てのライフラインが
               使用出来ません

後で知ったことですが
 地震が収まってすぐ 管理人さんが全て元を切ったそうです

ベランダから 外を見ると すぐそばに小学校があり
朝 明るくなると ぞくぞくと 校庭に集まっている人々がいます

最初は 校庭の地面の上に 
    布団を引いて横になっている人が・・・・

私たちも 午後3時ごろ 小学校に避難することにしました
大きなリュックに 夏布団を全て入れ
 とりあえず 私が一番に出発しました

小学校の中に入ると 廊下にまで布団を引いています
もちろん教室の中は 満員

これは困ったと思いながら歩いていると
    「放送室」
小中学校と 放送委員をしていた私には懐かしい場所!
戸のガラスの端が 少し欠けていたので 覗きこみました

もちろん 棚は倒れ すごい有様

でも よく見ると 倒れた棚の向こう側
     窓の傍に空いたところが・・・・・
部屋の中に入り 倒れた棚を乗り越え 窓の所まで行くと
 3畳分くらいの隙間が ありました

    ラッキー!

教室用においてある 箒で軽く掃除
  邪魔なものは 棚の下に 蹴り込み 失礼 片付け
大人4人が 寝るには十分な 場所が確保出来ました

あとから 主人と下の息子が・・・

どこに避難するか メモを残さず 家を空けてしまったので 
お兄ちゃんに 文句言われてしまいましたけどね

この 放送室と言う選択 ベリーグッ!でした
入り口入ってすぐは 畳一帖ほどの隙間しかありません
真ん中は 倒れた棚 唯一残っている隙間は 
 我が家が 占拠!

要するに 個室状態なんです

主人たちに 留守番をさせ 私は他のものを取りに家に戻りました

階段で 8階まで  
  「とことことこ  フー とことことこ フー」を繰り返してね

くたびれたので 今日はここまで


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